ほぼ久保くんサッカーまとめ

海外から見た日本のサッカー 久保くんを見る海外のサッカーのまとめです。 久保建英 ビジャレアル 中井卓大 レアルマドリード ヘタフェ

    中田英寿

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    【トッティ氏、中田英寿と交代した伝説のユベントス戦を語る「あの交代で全てが変わった」「事前にそうなるとわかってたら、前半で交代した。いや出場すらしなかった」】の続きを読む

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    2月に日本でも刊行予定の『フランチェスコ・トッティ自伝・キャプテン魂』には、「日本」というキーワードが何度か登場する。元ASローマ所属の日本人選手・中田英寿とのポジション争いをはじめとして、フランチェスコ・トッティの人生に少なからず影響を与えた「日本」との関わり合いを紹介する。

    お気に入のテレビ番組は『キャプテン翼』 フランチェスコ・トッティは自伝のなかで、子どもの頃、内気で怖がりだったことを明かしている。一人で家で留守番するのは大の苦手。ちょっとした物音が聞こえるだけで「泥棒が入ったのではないか」と怯え、毛布に潜り込んでいたそうだ。

    そんなとき、彼を助けたのはテレビ。ボリュームをマックスにして恐怖心と戦いながら母親の帰りを待っていた。当然彼はテレビっ子になったわけだが、なかでもイタリアで『ホーリー&ベンジ』というタイトルで親しまれている『キャプテン翼』は大のお気に入りだった。「子どもの頃、この日本のサッカー少年のアニメに夢中にならなかったやつはいない」と語っている。

    トッティ少年は物心ついた頃から、近所の仲間たちと夢中になってボールで遊んだ。当時から飛び抜けた才能を見せていた彼は、おそらく『キャプテン翼』の主人公、翼になりきって一層テクニックを磨いたことだろう。「遊びは、テクニックや才能、ピッチで生き残る能力を磨く上で、他と比べ物にならないほど効果的なんだ」と、子ども時代のボール遊びこそが、プロとして活躍する上で重要な基礎になると彼は説いている。

    実際、トッティは、プロになってから、試合の重要な場面で子どもの頃の自分に戻ることがあるという。子ども時代遊んでいた感覚でプレーし、それが決定打につながった様子を自伝で明かしている。数々のスーパープレーが生まれた陰に『キャプテン翼』の存在があることは確かだ。

    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200131-00010000-realspo-socc

    初めての海外遠征先は日本


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    ※U-17 イタリア代表でのトッティとブッフォン

    ローマが世界の中心。ローマ中心に世界が回っていると思っているトッティ。そんな内弁慶な彼の初海外の渡航先はなんと極東の地、日本だった! 1993年8月、日本開催FIFA U-17世界選手権(現・FIFA U-17ワールドカップ)に招集されたのだ。

    「人生で最初のビッグトーナメントに招集されたが、正直なところ、あまり行きたくなかったんだ。連絡がきたときはトルヴァイアニカのビーチで仲間たちと過ごしていた。すでにASローマでデビューしていたから、バカンスの地でもてはやされて楽しくてしょうがなかったんだ。イタリア国外に行くのが初めてだったというのも気が乗らない理由だった」と明かしている。

    猛暑のなか、公式スーツを着て汗だくになって辛かったこともあるようだが、家を出るときは母が泣き出し、本人もローマの空港に着いたときは「涙も枯れていた」という。まるで宇宙に旅立つかのような親子のリアクションではないか。

    このときイタリア代表は日本と同じグループA。3試合とも神戸で開催された。8月22日のメキシコ戦は1-2で破れたものの、トッティは25mのスーパーゴールを挙げている。これがこの大会での唯一イタリアの得点であり、トッティにとっては記念すべきアンダー世代の世界大会初得点となった。

    続いて26日の日本戦はスコアレスドロー。ちなみにこの試合、日本代表先発メンバーには宮本恒靖、戸田和幸、松田直樹、イタリア代表にはジャンルイジ・ブッフォン、エウゼビオ・ディ・フランチェスコが含まれている。のちにASローマのチームメイトとなる中田英寿とトッティは両チームのベンチを温めていた。

    最後のガーナ戦は0-4で完敗。日本は2位で予選突破したが、イタリアは2敗1分けで敗退した。初の海外遠征はトッティにとって苦い思い出となった。

    「中田は火星人」



    日本でトッティの名前が頻繁に聞かれるようになったのは、ASローマで中田英寿とのポジション争いが繰り広げられるようになってからだろう。自伝では中田との交代場面が何度か描かれている。なかでもセリエA優勝をかけた一戦となったユヴェントス対ローマの頂上対決における60分トッティと中田の交代についてはこのように思いを吐き出している。

    「正直驚いた。そして失望した。この大事な試合でカピターノ(キャプテン)が交代させられるのかよ!」「俺は混沌としたゴミ置き場のような状態のなかからでもゴールを引き出せる男だ。俺をピッチに残してくれよ! あと20分の間に何が起こるかわからないぞ」。

    そして中田とタッチして交代したわけだが、当時を振り返ってトッティはこう語る。「これまで数多くの“奇跡の交代劇”があったが、この中田との交代は記憶する限りでは最も驚くべきものだった。79分、ヒデはゴール上部隅に見事なミドルシュートを決めたんだ。ローマは蘇った」。

    「ユヴェントス戦での中田の活躍あればこそ、ローマは優勝できた」と信じているロマニスタは今でも多い。トッティにとって、ASローマ優勝はワールドカップ優勝以上に価値あるものだったが、それをもたらした大きな要素が中田だったのだ。

    そんなトッティはローマ優勝後、ロッカールームでの中田の行動をこう記述している。

    「歌って踊っての大騒動に俺もすぐに参加した。全員と乾杯した。いや、それが全員ではなかったんだよ。俺は唖然とした。というよりも素直に面白かったよ。中田だ。彼は濃厚なるカオスのなか、隅っこに一人座って本を読んでいた。あいつは火星人だな」

    トッティは、2002 FIFAワールドカップに招集されて来日した。当時日本ではイケメン軍団アッズーリの一人として注目されたが、この大会は彼にとって幸せなものではなかった。それはピッチ上だけのことが理由ではない。当時付き合い始めたばかりだった現在の妻、イラリーも日本に帯同したのだが、彼女が日本で楽しめなかったのだ。

    「毎試合後(イラリーに)20分だけホテルのホールで会うことができたのはよかったが、滞在先が観光地のど真ん中というわけでもなく、彼女は退屈していた。とにかくスクープを狙っている記者たちから逃げる以外は何もやることがなかったんだ」と語っている。そしてイラリーはイタリア代表が韓国に移動する前に、イタリアに帰国してしまったそうだ。

    グループリーグは勝ち抜けたが、その後の韓国戦は1-2で敗北。バイロン・モレノ審判が転倒したトッティをシミュレーションとみなしてレッドカードを差し出し、退場となった。疑惑の判定として物議を醸したが、当時VARがあったらどういう結果になっていたのだろうか。トッティはその試合では延長戦に入る前から「4、5回続けて韓国有利な笛が吹かれていた」「反則の基準が拡大解釈されていた」と見解を示している。
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    自伝で最後に「日本」というキーワードが出てくるのは、引退前の日本のクラブからのオファーの話。日本以外にも中国、アメリカ、アブダビのチームからもオファーがあったという。それ以上のことは言及していないが、Jリーグでプレーするトッティの姿を見てみたかったファンは多いのではないか。
    【トッティと日本、知られざる4つの秘話。内気な少年時代の記憶、人生初の海外、奇跡と悪夢…】の続きを読む

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    【あの中田ヒデが自画自賛!一番むずかしい「伝説の神業シュート」がこれ】の続きを読む

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    【中田ヒデの外国語を学んだ理由がおもしろい 「味方と口喧嘩できるのが大事」】の続きを読む

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    1: 江戸領内小仏蘭西藩 ★ 2019/04/19(金) 10:30:14.68 ID:ScCaCPiC9
    4/19(金) 10:13配信
    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190419-00000041-dal-ent
    https://amd.c.yimg.jp/amd/20190419-00000041-dal-000-2-view.jpg

     元サッカー日本代表の中田英寿氏が19日、TBS系「ビビット」で、真矢ミキとの対談に臨み、現役時代のマスコミとの確執について語った。

     真矢から小さい頃はどんな子どもだったのかと聞かれた中田氏は、教師や親が指導しても納得しなければ絶対にやらなかった子ども時代だったと振り返った。
    これに真矢は「『なんで言う事を聞かないんだ』という人はいなかったのか?」と質問。すると中田氏は「そんなのいっぱいあって。その最たるものが現役時代のメディアとの付き合い方。すっごい戦いましたからね」と振り返った。

     中田氏と親しい真矢は「ヒデちゃん、どなたとも溶け込んで…」とそんな一面は信じられないという表情を浮かべ、中田氏も「好きだから。子どもの頃から人と話をするのが好き」と認めたが、現役時代のヒーローインタビューを振り返り「試合終わりました、インタビュー生中継30秒、『今日はどうでしたか?』と。どうでした?お前の疑問はないのかと」と思っていたという。

     「それをプロに向ける言葉なのかと思いながら」聞いていたといい「真摯に聞かれれば真摯に答えるし、その他の所でも予定調和とか、向こうが自分の欲しい答えを引きだそうとしているのが分かった瞬間に、わざと違う答えを言ったり」ともコメント。
    「そういう人に対してはすぐに戦う。それが何年も続いたし、自分も結構きついときもあったけど、自分の信念を曲げる事の方が嫌い」と当時を振り返っていた。

    【中田英寿氏、現役時代のマスコミとの確執語る「すっごい戦った」TBSで 】の続きを読む

     元サッカー日本代表、中田英寿氏が旅した中から厳選した日本の逸品や一流の人々を紹介する書籍『に・ほ・ん・も・の』2018年12月6日(木)株式会社KADOKAWAより発売される。

     以下、リリース掲載。

    中田英寿が日本文化の魅力を全世界に発信!
     47都道府県の旅の軌跡『ReVALUE NIPPON』英語化決定さらには
     中田が厳選した日本の逸品・人を紹介する書籍第一弾・日本語版『に・ほ・ん・も・の』が12月6日発売(予定)
     海外版も順次計画が進行中

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     元サッカー日本代表、中田英寿公式のウェブサイトnakata.netでは、中田が2009年から6年半をかけて日本全国を旅した軌跡を紹介する『ReVALUENIPPON』の英語化と、中田が旅した中から厳選した日本の逸品や一流の人々を紹介する書籍を出版することが決定しました。第一弾として日本語版の書籍『に・ほ・ん・も・の』は、2018年12月6日(木)株式会社KADOKAWAより発売いたします。
      2006年のドイツワールドカップ終了後に引退を発表した中田は、その後、世界中を旅する中で、日本に再注目し、全国47都道府県のあらゆる「人」「コト」「モノ」を巡る旅を行いました。12月に発売される書籍『に・ほ・ん・も・の』は、土地と暮らしに密着したものづくりや食文化を経験し、人とのつながりを学んだ中田だからこそ、日本のみならず世界中の人に知ってもらいたい、日本のほんものの作り手たちを紹介するものです。世界の人に誇りたい日本の逸品や、日本人も知らない、日本の本当にいいものを、「ものづくり」「やど」「たべもの」「てみやげ」「さけ」の5つのジャンルにわけて紹介します。本書籍は他言語版の刊行計画も進行中です。
      2018年10月26日(金)に行われた、株式会社HPと『ReVALUENIPPON』とのコラボレーション発表会に登壇した中田は、日本文化や作り手の魅力を発信する現在の活動について「毎日の生活の中で、食べるものや使うものには、人の手で作られるものが沢山ある。それが文化につながっているということに気づいたので、全国を旅する間にあらゆる作り手を訪ねました。彼らの技術や考え方に触れ、作業を一緒にさせてもらいながら体で感じることができた。「いいものを作る」ということを人生の目標にしているということが、作り手に対して尊みを感じます。だからこそ、自分が体験した知識や情報、そういった人たちのことを伝えていきたいと思っています」と、話しました。

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    【書籍概要】
     ■タイトル:『に・ほ・ん・も・の』(監修:中田英寿)
     ■発売日:12月6日予定
     ■定価:1,900円+税
     ■発行:株式会社KADOKAWA
     ■収録内容:工芸/宿/レストラン/手みやげ/日本酒から厳選した53コンテンツ(詳細は次頁)

     書籍「に・ほ・ん・も・の」収録内容
    ●ものづくり
     志村ふくみ(京都/着物)
     山本茜(京都/ガラス)
     楽吉左衛門(京都/陶芸)
     雲龍庵・北村辰夫(石川/漆)
     室瀬和美(東京/漆)
     見附正康(石川/陶芸)
     武関翠篁(東京/竹工芸)
     新里明士(岐阜/陶芸)
     四代 田辺竹雲斎(大阪/竹工芸)

    ●やど
     沼津倶楽部(静岡)
     御宿 竹林亭(佐賀)
     妙見温泉石原荘(鹿児島)
     強羅花壇(神奈川)
     角館山荘侘桜(秋田)
     名月荘(山形)
     秘境 白川源 泉山荘「竹ふえ」(熊本)
     汀渚 ばさら邸(三重)
     HOTELLI aalto(福島)
     Hotel bi.ble(北海道)

    ●てみやげ
     ブーランジェリーブルージュプリュス 生クリームあんパン(岩手)
     末富 京ふうせん(京都)
     北菓楼 シュークリーム(北海道)
     ももいちご(徳島)
     NASUラスク こげパンだ(福島)
     アテスウェイショートケーキ(東京)
     梨「与佐ヱ門」(千葉)
     腰掛庵 わらびもち(山形)
     BON DABON 生ハム(岐阜)
     福内商店のコロッケ(東京)

    ●たべもの
     レフェルヴェソンス(東京/フレンチ)
     柳家(岐阜/郷土料理)
     神楽坂 石かわ(東京/和食)
     La Barrique Tokyo(東京/イタリアン)
     よろにく(東京/焼肉)
     天寿し 京町店(福岡/寿司)
     欅苑(新潟/和食)
     四 三谷(東京/寿司)
     田ざわ(北海道/天ぷら)
     L’evo.(富山/前衛的地方料理)

    ●さけ
     高木酒造株式会社(山形/十四代)
     新政酒造(秋田/新政)
     株式会社新澤醸造店(宮城/伯楽星)
     せんきん(栃木/仙禽)
     桝田酒造店(富山/満寿泉)
     清水清三郎商店(三重/作)
     松本酒造(京都/澤屋まつもと)
     木屋正酒造合資会社(三重/而今)
     勝山酒造(宮城/勝山)
     澄川酒造場(山口/東洋美人)
     磯自慢酒造(静岡/磯自慢)
     黒龍酒造(福井/黒龍)
     平和酒造(和歌山/紀土)
     富久千代酒造(佐賀/鍋島)


    ローマのレジェンドであるフランチェスコ・トッティ氏が、自伝本『ウン・カピターノ(主将)』の中でかつて同僚だった元日本代表の中田英寿氏について語っている。
     中田氏は、ペルージャを経て2000年1月にトッティ氏が所属していたローマに加入した。翌シーズンにはユヴェントス戦(2-2)でスクデットを呼び込むゴールを決め、日本人初となるセリエA制覇を成し遂げたが、元ローマの主将は当時を回想した。

    いつもの穏やかな笑みを浮かべていて、やや構えているようだった。私は耳元で『君は最高だよ、ヒデ!』と何度も叫んだ。最後に彼はこちらを向くと、『グラッツィエ!』と大声で答えてくれた。それから彼は立ち去って行ったが、スクデットに値するゴールが決まった直後、興奮した選手たちに体を触られて少し嫌だったのではないかと思う」

     彼はあのカオスの中で、隅に座って本を読んでいたんだ

    「ナカタは1番にロッカールームへと消えていったが、存在感を消した宇宙人のようであり、礼儀正しいが、淡泊で物静かだった。僕らと一緒にいながらも誰も侵入することのできない自分の世界も持っていた」
     またトッティ氏は、ロッカールーム内において、チームメートたちがスクデット獲得に歓喜する中、中田氏の行動には驚かされたと明かしている。
     「皆と一緒に歌ったり、踊ったり、乾杯したりしていた。その時、ナカタには呆気にとられたけど楽しませてもらったよ。彼はあのカオスの中で、隅に座って本を読んでいたんだ。火星人だよ」

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    2006年ドイツ・ワールドカップを最後に29歳で現役引退を決断した中田氏だが、トッティ氏は直接本人から早期引退の可能性を聞かされていた。「言葉を交わした回数は少なかったが、『僕は他にもやりたいことがあるので、早めに引退するつもりだ』と言っていたが、まさにその通りになった。だから今でも覚えている」

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    Number961号に掲載した長谷部誠の取材が行われたのは、ブンデスリーガ2018-2019シーズン開幕直前のある日、午前と午後に行われる2部練習の合間の昼下がりだった。予定よりも少し早く待ち合わせのカフェに姿を現し、テキパキと注文をする。

    「炭酸水の大きなボトルとグラスを3つ」

    在独11年の人が発する言葉に注釈をつけるのも野暮というものだが、ドイツ語は流暢だ。テーブルに水が届くと、「飲みますよね?」と当然のようにカメラマンと筆者のグラスに注いでいき、一息つく。「ドイツも暑いですね」と、ささやかな雑談を交わしながらインタビューに入った。

    最初に聞いた質問は、こうだった。

    なぜドイツでここまで長くプレーできているのか、どういう実感を持ってやっているのか。

    すると、長谷部はドイツ移籍当初から現在までの“思い”を、うまくまとめて話してくれた。
    https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180918-00831891-number-socc


    「国っていう概念を取り払いたい」


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    「(自分のキャリアは)現在進行形なのですけど……やっぱりこうしてヨーロッパの舞台でやれてるというのは、間違いなくいろんな先輩たちが踏んで来られた段階があってのことだと思います。
    ヒデさん(中田英寿)もそうだし、そういう方々への感謝は絶対忘れちゃいけないなと思っていて。 僕もドイツに来るときには、1人のサッカー選手という以前に“日本人代表”というか、自分への評価がこれからヨーロッパに来る若い日本人選手への評価にもつながるんだろうなと、背負ってやってきた部分もあります」

    おそらくは先輩たちが背負ってきたもの、それを感謝とともに後輩に受け継ぐ。いつも冷静沈着な長谷部が、思いのほか熱っぽく話したことに驚いた。

    予想外の話は、他にもあった。長谷部はドイツのクラブに在籍した歴代日本人選手の中で、最も長くプレーしている。ピッチ外の所作や言動も自然だから、よっぽど欧州での暮らしが肌に合っているのだろうと推測していた。ところが本人は、それを否定する。

    「確かに海外の中では、ドイツは自分に合ってるかな。だけど、今でも『ドイツと日本とどっちが住みやすいか? 』と言われたら、間違いなく日本だと思います。食事もおいしいし、友達も多い。いろんな部分で日本は清潔だし、暮らしやすい。

    でも、実際にサッカーがあり、総合的に考えたときには、今は間違いなくこっちが自分には合ってると思います。もちろん現役をやめてからも、こっちに残ることは考えられる。でも、日本でも暮らしたいなとも思うし。まあ、住むのはどこかってはっきり決めなくても、行き来すれば良いのかなと。

    正直、そういう“国”っていう概念を、自分の中で取り払いたいなという気持ちはありますよね。別にヒデさんじゃないけど、家持ってなくてもいいじゃんみたいな」

    ひとり旅が好きだというのは、独身時代の有名な話ではあるが、「家なんてなくてもいい」という自由人タイプだとは思いもつかなかった。

    選手を見極める目は「まったく自信がない」

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    ここ数年はフランクフルトとの契約を更新するたびに、「引退後はドイツで指導者のライセンスを取るらしい」「クラブ運営を学ぶ予定だ」と噂が流れる。ただ、本人は具体的にはノープランだと強調しつつ、指導者としての資質については首をかしげる。

    「監督とかコーチとか、本当に向いているのかなってよく思いますよ。自分では、『この選手、いいな』と思った選手がなかなか上に行かなかったりとかね。

    ニコ(・コバチ、フランクフルト前監督)なんてすごいなと思いました。今季からドルトムントに行ったマリウス・ボルフを最初に見たとき、僕は『えー、試合に出して大丈夫? 』みたいに思っていたのに、あっという間に伸びましたからね。

    エディン・ジェコやマリオ・マンジュキッチもそうでしたけど、ああやって活躍している選手の急激な伸び方って半端ないんです。そこを見極める目は、まったく自信がないです。ジェコなんて、一緒に練習していて『お前だけはシュート打たないでくれ』って思っていましたからね(笑)」

    自虐的なエピソードを話す様子は楽しげだった。とはいえ、まだ心配しなくても、スパイクを脱ぐのはもう少し先のことだろう。

    インタビューも終盤にさしかかり、今後渡欧を志す後輩たちへ、どんな言葉をかけたいかと聞いてみた。インタビューがまとめに入ったことを示すような、いわば“ありきたり”な質問ではある。だが、長谷部はここで悩み始めた。

    「うーん、どうなんですかね。その選手のキャラクターや移籍のタイミングとか、色んなことが絡み合って、やっとうまくいくから……」

    雑誌の記事中でも語っているが、長谷部はここまでの10年強、楽しいことよりも辛く苦しいことのほうが多かったと言う。だからこそ簡単に甘いエールを送るわけにはいかないようで、少し頭を抱える。

    「簡単なことばかりじゃないし、絶対大変なことも多いし。だけど……それを耐えて、忍んで、どれだけ経験を自分のものにできるか。耐えるだけじゃなくて、そこから前に進めるか。それだけだと思います」

    決して意地悪で言っているわけではないというのは、ひしひしと伝わる。期待もしている。

    「ヒデさんはサッカー界に携わってもらわなきゃ」

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    「これまで本物の、真のビッグクラブでプレーした選手って、ヒデさんのローマ、シンジ(香川真司)のマンチェスター・Uくらいかな。だから欧州のトップでプレーする選手が、もっともっと出てきてほしいという気持ちはありますね。それは日本代表とか、日本サッカーの強化につながると思います」 

    その日本人選手の欧州移籍のパイオニアである中田英寿については、憧れと尊敬の気持ちを込めてメッセージを託してきた。

    「ヒデさんはやっぱり、別格だと思いますよ。21歳でペルージャに行って、2点取ったユベントスとのデビュー戦も、『すっげーな』と思いながらテレビで見ていました。それからローマでスクデットも取って。

    ヒデさんって、まだ41歳でしょ? 俺、34ですよ(笑)。同じ時代にサッカーをやりたかったですね。サッカー観とか、合いそうな気がするんですよね。あの人は強さもあり、うまさもあり、ダイナミックさもあって。一緒にボランチでコンビを組んでやりたかったって、一番思う選手かもしれない。

    僕なんかが偉そうに言うのはあれですけど、やっぱりヒデさんはどういう形であれ、日本のサッカー界に携わってもらわなきゃ困る人だと思いますね。監督なのか、コーチなのか、協会のスタッフなのか、どういう立場かはわからないですけど、何かしら関わってほしい人。ああいう人がいると日本サッカー界もより盛り上がるし注目されると思う。だから、そう書いといてください!」

    最後は茶目っ気たっぷりながら、とても長谷部らしいメッセージだった。


    【◆長谷部誠が中田英寿に伝えたいこと◆「日本のサッカー界に携わってもらわなきゃ困る...」「書いといてください!」】の続きを読む

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    元日本代表MF中田英寿氏のセリエA移籍20周年を記念して、きょう13日の午後9時より、Abema TVにて特別番組が放送される。
       
     番組名は「中田英寿 20年目の旅 セリエA在籍5クラブを訪ねて」。発案した中田氏は「今年は僕がペルージャでセリエAでデビューしてちょうど20年なので、みんなで20周年のお祝いをしようと思ったのがきっかけで、当時のスタッフに声を掛けました」。

     中田氏と現役時代に関わったスタッフの一団は、かつて在籍したペルージャ、ローマ、パルマ、ボローニャ、フィオレンティーナの街に降り立ち、戦ったスタジアムや、激闘の疲れをいやしたレストランやホテルを訪問。懐かしい空気に触れながら、サッカー選手としての原点を思い出した。

     20年前の1998年9月13日は、中田氏がベルマーレ平塚からセリエAのペルージャに移籍し、デビュー戦となったユベントス戦でいきなり2ゴールをあげ、世界にその名を轟かせた。当時のユベントスには、直前のフランスワールドカップで優勝したフランス代表の絶対的エース、ジダンや、今年のロシアワールドカップの優勝監督になった主将のデシャン、イタリア代表のエース、デルピエロといった世界的スターが勢ぞろいしていた。
    そんな相手に気後れせずに敢然と立ち向かった当時の心境も、中田自身が丹念に振り返る。

    9/13(木) 10:03配信 ゲキサカ https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180913-01848634-gekisaka-socc

    【◆中田英寿氏のイタリアデビュー20周年の記念番組を本日放送!】の続きを読む

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